昭和51年8月29日 特別奉修委員 (末永信太郎)
自分の心というものは、神様と自分だけしか分からない。本当に例えば、あれは何ですかね、夏に作るお饅頭で、あの、くずかけ饅頭ちゅうかね、中のあんこが分かるでしょう、透き通って。例えば、人間のその心の中があのようなね、くずかけ饅頭のように分かるならね、あの、もうそれこそ、もう恥ずかしゅうして、もう人には顔合わせられんごたるものばっかり内容にあるだろう、と。
今、私が頂いたら、ちょうどここに並んどんなさるぐらいの饅頭をね、みんな、くずかけ饅頭じゃん。(笑)。ほれで、本当に中がね、何かあんこ一色であればいいけれども、本当に、もう自分ながら、それこそ恥ずかしいようなものやら、自分ながら愛想もクソもないごたる心やらがね、お互い心の中にあるということです。なら、それを知ってるのは神様と私ども。
それでいて、このようなおかげを受けておるのですから、最近、私が言う本当に神様のおかばい、御取次をして下さる金光大神のおかばいによって、今日こうやっておかげを受けとるということがね、分かる。昨夜、今こうして会合があっとりますから、夕べ10時半までのことでしたから、私も11時ごろ一遍こう回って、片付けとるだろうと思うて回ったら、まあだ、どの部屋も明々と、まだ話が一生懸命弾んどりましたから。それから、また休ませてもろうて、ちょうどそん時、私はあの、食堂まで出て来ましたら、あの、栄四郎とあの何ちゅうか、福岡から来よります、あの人はいつも飲み友達で、があの、奉仕着きてから食堂から出ろうとしよりますもん。どうもこう、少し、そのメートルが上がっとるごたる風ですもん。
それから、アンタどう、今からどこに行きよるとちゅうたら、今からこう、二人で家の見まわり(さ行きよるとこ、さ行きよるとこ?)ち言いますもん。なら、もうお父さんこっちの方は見回らんでよかの、んなら、頼んどくよと言うて私は休ませて頂きましたけれども、どうもあの、そん一杯機嫌のごたる感じじゃったのが気がかりでね、それから、昨日一昨日、さ一昨日ですかね、あなた夜中に電話、あの、稲垣さんところに電話がかかって来たげな。泉くんと二人でどっか久留米へ出て、飲みに行っとりますたい。で、飲酒運転で帰って来よってから、警察から捕まえられとっとげな。
ほれで警察からあなた、あの、宮崎さんところに身柄を引き受けに来にゃ返さんち言うちから電話がかかったげなけんで、あそこはあなた、夜中に夫婦で行っとんなさるです、警察まで。ちょうどここが、土居の共励会の晩でしたから、もう遅う帰って、そして休もうち言いよったら電話がかかって来たげな。で、そういうようなことやらがありましたもんですからね。
それから、私はまた、ちょうど一時頃出て来ました。それから、まだ、もうほとんど休んどりましたけれども、ここの研修室だけが、まだ盛んに話がありよりましたもん、判別懇談のごたるとがありよったですから。そして、こう回って来ましたら、ここで一生懸命、誰か一人で大払い信行しよりますもん。そしたら、栄四郎でした。もう、そげん時、もう本当に(それを見て?)安心しますですね。ああ、もう例えあの飲酒運転で捕まえられようが、どういうことをしよろうがね、まあ、そん、どげなことしよろうがということがです、例えばお互いの心の中ですよ。ね。もう、それこそ、本当に神様と自分だけしか分からん、そういう自分でも、神様がこのようにおかばい下さって、おかげ下さってあるんだから、ね。
んなら、子供達の場合だってもそうです。それは、まだ今、だから色んな勉強させてもらう、飲酒運転で捕まることもよかろう、もう、私の方では事故を起こすと、あの人が一人でもう引き受けとります。もう、自動車が半分になるごたる大きな事故を起こすけれども、おかげで怪我いっちょせんとこは神様のおかばいを受けとる証拠。お叱りを受けよりながらも、おかばいを受けとる証拠。
だから、その、それがどこに彼の信心の生き方にそれがおかばいが受けられるかと言うと、んなら、昨日のような場合、私がなら心配で一時に出て来たおかげで、私も安心して休まれる。というのはです、一人で一生懸命、大払い信行を御祈念をさせて頂いておるという。だから、この人にこれが一つある限りね、どういう例えば汚いことをしよろうが、言いよろうが、行いよろうがね、あの、神様がそれでおかげを下さるとこう、まあ、思うから親の私が安心が行くわけです。
なら、皆さんの場合でもそうです。それこそ、もう、本当に見透かされる、もうそれこそ、あの何とか饅頭じゃないけれども、誰が見ても、ははあ、あれはあんこ一色というごたる人は、先ず一人もなかろうと思うです。それこそ、見通しに見抜かされたら本当に自分のへきへきするようなものを自分の心の中に感ずるだろう、と。それでもね、あの人はああして日参が出けておるから、あの人はあのことだけには信心、心に向けておるから、これがなからなきゃ、私は皆さんに一人ひとりに安心が出けんです。ね。
もう、言うこととすることが違う。これは、なら、誰でも同じようなことが、なら言えるかも知れませんけども、けれども、これだけは、あの人が出けとんなさる。そこに、引っかかりが出ける、引っ掛けるですねえ、私が取り次がせて頂く時に、この人は何も出けません。それは、口でもこう言いよるばってん、心は実はこげんでございます、と。けれども、これだけは出けとりますから、どうぞと言うと、そこからおかげの頂けれる道がサーッと開けて来る感じがするですね。
それこそ、日田の堀尾先生の有名なお言葉じゃないですけれども、いわゆる、未完成のまま永遠にということは、そういうようなことじゃなかろうかと思うね。とても、私どもが、んなら、神様見て下さい、ほんに私が腹ば切ってから、割ってで見せようごたるなんてんちゅう人がありますけども、それこそ見通したなら、もう、それこそザマなかろうち私は思うですたい。
ですからね、そういう、んなら、でも、神様がおかばい下さってある。それは、なら、御取次の金光大神がどこにか、あの氏子のどこか、ひととこでも良かとこがありゃね、例えば、んなら、栄四郎たちの生き方が今どうということじゃないですけれどもです、んなら、親として心配せんならんようなことがあるけれどもです、しかし、この人がこれをやり続けておる限り、親も安心だ。そっから良いものは必ず育って来るという風に思うんです。なら、信心頂いておる者一人ひとりも、やっぱそうです。
あの人は、もう出けんけども、ここんとこだけは、これだけはと、やはり一つの何と言うでしょうかね、筋金が通っとる。ね。そういう、やはり信心を、その筋金がいよいよ本当なものになって行く。それが、信心のやはりお育てであると同時に、おかばいを受けるということね。おかばいを受けての私たちであるという、本当にあの、お礼を申し上げにゃおられない。本当に、私ぐらいなモンでも神様がこんなにして、御用に使うて下さって有り難しということ。
同時に、んなら、私どもの信心の願いとして、もう、これだけは、これだけはやっぱり一本信心のそれが貫かれておるという、その貫かれておるものが切れた時が、これは取次者としての、ここで言うなら私、または金光大神が、ね、氏子の上にご心配を下さる時だと思うですね。
金光大神に一つ、あの、ご心配をかけないような、その私のようなザマない人間であっても、これだけは続けておる。これだけは、私の信心の筋金といったようなものがなからなきゃならんということですよね。どうぞ。